(後編)同居の娘夫婦は自宅で死んだ「84歳母親の最期」にも立ち会わず…訪問医と飼い猫“サクラ”だけが見た“母親の死”の「一部始終」

2022年10月15日マネー現代


「娘は私の言うことを聞いてくれなかった」

惠子さんに納得できる最期を迎えて貰うためにも、娘の性格や死生観を事前に知りたい――。

私は惠子さんに探りを入れてみた。

「娘さんって、何歳ぐらいなの?」
「いくつになったかしらね。先生と同じくらいじゃない? 五十は超えたわね。生まれたのが東京オリンピックの年だったから」

娘は私と同じ年だった。惠子さんが三十半ばの時に生まれた計算となる。結婚も当時としては遅く、三十を超えてからだった。お見合いの席で御主人が「俺が絶対に守る」と宣言してくれて、惠子さんはやっと結婚に踏み切ったそうだ。

「娘さんはどんな仕事を?」

「よくわからない。あまり話してくれないから。子供の事なんて何もわからない。本当はね、学校の先生になって欲しかったの。そしたら、娘も地元に残ってくれるし、世間体もいいじゃない。何より一緒に暮らせるしね。でも、希望通りにはならなかった。大学も行かないっていうし、変な男と結婚するし、最後まで私のいうことなんか、全然、聞いてくれなかった」

10年前に始まった同居

結婚相手もサラリーマンで堅気ではあるが、公務員と結婚して欲しいという母親の願望を裏切ったという事で「変な人」と惠子さんは評価しているようだ。

そして結婚まで反対された娘は、しばらく音信不通の状態になったらしい。その後、亡くなった夫が、なんとか連絡を取り、10年前に二世帯住宅という形で同居がスタートしそうだ。

「二世帯住宅って、買う前はよくわからなかったのよ…。一緒に御飯を食べたり、テレビ見たりして暮らせるかと思ったけど、現実は違っていた。娘と会えるのは一年に数回だけ。婿殿とは引っ越してきた初日に一回会っただけで、後は一度も会ってないのよ。こんな馬鹿な話ってある? 一緒に暮らしてからの方が、かえって寂しくなった」

途中からの同居はうまくいかない、とよく聞く。結婚まで反対した娘夫婦とは、なおさらうまく行くわけはないのだ。親の住む一階と娘達が住む二階部分。そこを毎日、行き来するのは、黒猫サクラだけである。

「結局、私に懐いてくれたのは、サクラだけね」
座布団に寝転がっていたサクラを惠子さんが撫でようとすると、二階に逃げて行った。いつだって猫は気まぐれだ。
惠子さんの我儘に振り回されながらもスタッフは彼女を支え続けた。

「金を盗られた」という妄想

認知症なのか、疑い深い性格に起因しているだけなのか、少しづつ「金を盗られた」という妄想も始まった。スタッフも精神的に疲労していき、何名かは消えて行った。

自分も、惠子さんの性格に振り回され、離れたいと思う事があった。しかし、夜中に呼び出されて話を聞いていると、私自身が当時抱えていた「親の確執」にも当てはまるものがあり、学べるものも多かった。特に冷静に話せる時の彼女は素晴らしかった。

その日も夜中に呼び出されて駆けつけると、親子について話をふられた。
「先生、親子って何なんだろうね。私も男の子が欲しかったわ」

「うちの親は、俺の事を『他の家の老人ばかり診察して、自分のところには八年も帰ってこないバカ息子だ』と言っているよ」

この頃の私は、親と電話で話すだけでも嫌悪な状態になっていた。

「もし先生に、どこかに本当の親がいたとしたら探しに行く?」

「うーん。病院での取違いで悲劇になっているドキュメンタリーも見てみたけど、当事者にならないとわからない問題だよね。けど自分は探さないと思う。いまさら『私が生みの親です』と言われてもピンとこないし、何よりこれから、親を四人も介護するなんて大変だしね」

スティルス家族を私は否定できない。私自身もまた、親戚からは『家族関係が希薄な男だ』と言われている。

恵子さんの「最後の日」

「子供のためと考えて色々やってはきたけど、結局は私もまた“親子ごっこ”をしたかっただけかも知れないわね」
この日の惠子さんの言い回しは、あとから考えると意味深な表現が多かったように思える。

それから半年後、惠子さんはインフルエンザをきっかけに、容態が悪化し「その日」がやってきた。

訪問看護から緊急連絡が入った。夜の安否確認の電話に惠子さんが反応しなかったため、自宅に訪問してみると意識が混濁しており下顎呼吸が始まっていたという。惠子さんに死が近づいている兆候だ。私もすぐに向かった。

時計を見ると午後十一時。玄関に入る時に二階の部屋を見ると灯りがついていた。今なら娘夫婦が二階にいるはずだ。もう惠子さんに残された時間はない。二階に上がって娘に会いに行くことにした。娘とはある時から電話を掛けても「この番号は現在使われておりません」と繰り返されるようになっていたからだ。

枕元にいたのは黒猫サクラだけ

まずは階下から「すみません、お話があるんですが」と声をかけた。しかし反応はない。二階に通じる階段を昇っていく。昇り切る前に再度、声をかけたが反応はない。何となくだが、人が住んでいる気配を二階に感じない。

階段の途中の踊り場から上を見て驚いた。猫の移動を妨げようとする意図なのか、廊下に柵が作られていたからだ。すのこを立てて作られた手製のもので、あまりに無骨すぎて人間の移動を拒んでいるようだった。私にも威圧感を与えてくる。

いつ作られたのかはわからない。しかし、今の私には、これが、この家族の関係を象徴しているように感じた。もう一度、声をかけてみると物音がした。いよいよ娘が現れるのかと思ったが、現れたのは黒猫サクラだった。柵を器用に乗り越えてきた。やっと確信に至った。二階の灯りはダミーで、娘はここには住んでいない。

部屋に戻ると、惠子さんに「無呼吸」が始まっていた。彼女の希望通りにはなりそうだった。少なくともこの家で、見た目は安らかに死ねるのだ。

もう間もなく彼女の命は尽きようとしている。連絡手段が無くなった娘を呼び出すのは諦めた。惠子さんの傍らに肉親は誰もいない。いや、黒猫サクラが、惠子さんの枕元に鎮座しているだけで幸せだと考えた方が良いのかも知れない。そう考えることにした。いろいろ考えることはあるが「死」は待ってくれない。

寄り添うサクラ

午前二時に彼女は永眠した。私は車に白紙の死亡診断書を取りに外に出た。冬の夜風は冷たかった。孤独死、肉親不在での死、独居ならば理解もできる。暗闇の中に浮かぶ形式だけの二世帯住宅に割り切れないものを感じた。

午前四時、部屋に戻ると看護師はエンゼルケア(逝去時ケア)を始めようとしていた。着替えをさせようとした時に下腹部正中に手術痕を見つけた。

思えば惠子さんは肌を見せるのを極端に嫌がる人だった。訪問入浴も拒否したため後半は、清潔が保てずに困っているという話題も何度か出ていた。ただ特に問題が無かったので自分も片手落ちかもしれないがパジャマの上から診察していた。
「惠子さんに手術歴はある?」
「子宮筋腫で全摘したって聞いていましたけど、ちょっと待ってくださいね」

看護師は資料を漁りだした。私は惠子さんの遺体に近づいた。惠子さんの様子が違う事に気づいたのか、サクラが寄り添っている。私は惠子さんの遺体を確認したいが、サクラが邪魔してくる。

「先生、正確な年月日はわからないけど<二十代後半に全摘した>と記録が残っていました」
「惠子さんの娘の年齢って知っていますか?」
「知りません。会えてませんもんね。これからどうするんでしょうね…」

電話口ですすり泣く娘

惠子さんの永眠にあたって、この手術痕が問題になるとは考えられない。死亡診断書にも記載する必要はないものと思われる。ただ私の聞いていた娘の生まれた年と、惠子さんの子宮を摘出した時期が合わないのが気になった。娘の年齢が私と同じだとすると――。

エンゼルケアが終わった。今日は、サクラが逃げようとしない。抱きかかえてもゴロゴロと喉を鳴らす。初めて頭を撫でさせてくれた。すると首輪に「サクラ 山元 090-0000-0000」と携帯の番号のタグが付いている事に気づいた。我々が知らない番号だ。思い切って電話をかけてみた。
「はい、山元ですが――」
娘だった。私は自分の名前を名乗り、母親の逝去を知らせた。

「大変、御世話になりました」
「しばらくなら、お待ちしますが、ここにいらっしゃいますか?」
「申し訳ございません。車が無い物で…。明日、電車で参ります」

同居をしていないなら、どこに住んでいるだろう。年齢の確認もしてみた。
「娘さんは? 昭和39年生まれですか?」
「そうです」
「お母様のお腹に手術の痕があるのですが、もし、御存知でしたら内容を教えて下さいますか?」
応答が無くなった。電話口からすすり泣く声が聞こえる。取り乱しているようだった。そのまま一方的に電話は切られてしまった。
私は死亡診断書を仕上げ、枕元に置いておいた。

やっと、頭を撫でさせてくれたサクラにも別れを告げた。帰りの車中で、惠子さんと娘について、色々なパターンを考えた。娘と初めて電話で話してみたが、悪い人には思えなかった。
それから三か月後、娘から封書が届いた。丁寧な文字で感謝の言葉が綴られていた。手紙の最後にはこう書いてあった。

一緒になろうとするけど、なれない何かがあって
それが何かがわからなくて、でも、最後の一週間、短時間ですが母と話せました。
私は、どう思われようと、あの二人の娘です

これ以上、二人について邪推するのを止めることができた。
血縁など、どうでもいいのだ。

*当事者のプライバシーを考慮し、内容の一部を改変しています