一人で死ぬ人は「かわいそうな人」なのか 「明るい孤独死」のできる社会とは

2017年11月29日PRESIDENT Online


 日本はこれから“超高齢社会”を迎える。その社会では多くの人が、誰にも看取られないまま死を迎える。だが、そうした「孤独死」を悲惨なものと考えるのは早計だ。避けられない現実と向き合いつつ、「明るい孤独死」を実現する方法はないのか。なにがいまの日本に足りないのか――。

「自らの死を語ること」をタブーとしない意識変革

 私たちは、死について語るときよく使うフレーズを持っている。例えば、「畳の上で死ねない」「ろくな死に方をしない」「親の死に目に会えない」……。そこから類推するに、日本では、「畳の上(=自室)」で「家族に看取られながら」亡くなるのが、人生の最期の理想の姿であるというのが暗黙の了解のようだ。ただし最近では、前者(=畳の上での死)を満たせても、後者(=誰かに看取られること)が達成できなければ、同情の対象や、事件として取り扱われるケースが出てきた。いわゆる「孤独死」である。

 しかしながら、多くの人に見守られながら亡くなろうが、外出先で突然死しようが、死後、数日たってから発見されようが、同じ「死」であることに変わりがないと筆者は考える。亡くなる「瞬間の状況」よりも死の瞬間を迎えるまでの最期の「道筋」の方が、よほどそれぞれの人の人生において重要なのではないだろうか。

 このような疑問を投げかける背景には、今後の日本で想定される多死社会がある。今後の日本は「一人で死ぬこと」が当たり前のことになっていく。そのとき、自分らしさを前提とし、覚悟して備え、納得して生き抜いた結果であれば、それはたとえ最後に一人で亡くなったとしても「明るい孤独死」と呼びたい。そして、それが実現できる社会のシステムづくりを進めていきたい。その第一声を上げることが本稿の目的である。

 「明るい孤独死」社会の実現に向けて求められるのは、実は孤独死を受け入れる社会の意識変革である。一人ひとりが、まず自分自身の終末のあり方や死生観について語り合い、自分自身の「終末を選び取る権利」を認識することが第一歩だろう。

 ただ、死について語ることを「不謹慎だ」「縁起でもない」とタブー視する風潮は、まだ日本の社会には根強く残っており、かつ固定的な死生観も根付いている。「明るい孤独死」社会の実現に向けて、最初に立ちはだかるハードルが、実は最も高い。

「超高齢社会」では介護する側の人口が急減

 そのそびえたつハードルを、何としてでも乗り越えなければならない。私たちの常識は、「介護といえばまず家族が担うもの」というイメージや、「家族で手に負えない状態になれば、最期は施設へ」というプロセスに支えられている。しかし、これからの日本は、そのようなイメージや常識では追いつかない状態が予想される。

 すでに知られていることだが、「超高齢社会」といっても急激に高齢者が増加するのは2025年ごろまでである。(図表1)それよりもむしろ問題なのは15歳~64歳の人口が減少し、年齢別の人口構成比がいっそう社会的にいびつになり、そしてそれに従って介護する側の人口も急激に減少していくことである。

 団塊の世代がすべて75歳以上となる2025年で、後期高齢者一人に対して生産年齢人口はわずか3.3人となる(15年は4.6人、国立社会保障・人口問題研究所『日本の世帯数の将来推計(全国推計)』(2017年推計))。家族構成で見てもすでに、75歳以上世帯においては、単独または夫婦のみ世帯の数が、なんと7割弱にも達すると見られている(同2013年3月推計)。すなわち、今後の「超高齢社会」においては、家族の介護負担は望めず、かつ、サービスを提供する人員すらいないことが「普通」の状態になっていくのである。

 となれば、「畳の上で家族に見守られながら死ぬ」というこれまでの理想を体現できる人は、将来的に非常にまれになる。私たちは今までの常識や暗黙の了解を超え、個人としても社会としても「孤独死」を受け入れていく備えを、今からはじめる必要があるのだ。

一人で尊厳ある死を迎えるために

 一人で死を迎えることは「かわいそう」でも「悲惨」でもなく、ましてや「問題」などではない。介護事業者のコンサルティングを通して、現場を垣間見た筆者の印象では、最期はいわゆる「孤独死」であったとしても、それまでその人とかかわった人たちの心には、鮮烈かつ生き生きとした人生の記録が残る。また一方で、一人の人間の死に関わる人々のうち、家族(血縁)はほんの一部の過ぎないということも深く認識した。死にいたる終末期において自分らしく納得する生き方ができた人は、死の「瞬間」がどのような状況であれ、人生を生き抜いたという意思が周囲の人たちにも伝わる。

 従って、個々人は、それぞれの「自分らしく明るい」最期を求めて、考え方をまとめ、周囲に伝えていくことが重要だ。身体的に衰えや病気などでケアや治療が必要になったときに、どういう点を尊重してもらいたいかを表明することは、その典型であろう。

 個人の心がけだけではなく、「明るい孤独死」を社会に定着させるためには、どのような取り組みが必要になるのだろうか。以下の5点を提案したい。

(1)介護体験、介護技術を学べる教室
「ひとりで自分らしく」暮らし続けるためには、「ある程度のところまでは自分でできる」範囲を広げるそれなりの技術(たとえば、食べ物が誤って喉頭と気管に入ってしまう誤嚥(ごえん)をしにくい食べ方、身体に負担の少ない寝返りの打ち方など)も取得できなければならない。介護現場でのケア技術を、介護を仕事にする人のためだけでなく、広く一般の人たち(子供も含む)に向けたカリキュラムとして展開することも必要だ。

(2)21世紀型「地縁」コミュニティの形成
街づくりの視点で欠かせないのが、血縁に頼らない「地縁」コミュニティの形成である。そこでは、子供から高齢者まで多世代が交流できる集いの場があると同時に、他力が必要なステージの人たちが安心して暮らせる有償サービスが「事業」、すなわち、市場ニーズを捉え、継続的に収益を上げるための活動として提供される。単なる地域のつながりや善意を前提とした自然発生的なものではなく、仕組みやシステムを事業として成立させることにより、コミュニティを継続させることを目指すべきである。

(3)終末期における金融サービスの充実
お金の管理も重要だ。保険制度、財産管理とそれに伴う個人認証システムはいずれも、「自分らしい最期」を選び取るために欠かせないサービスとなる。自分らしさを確保するためのリスク回避やサービス利用、およびそのためのコスト負担が実際問題必要となるからだ。

しかし、要介護状態、特に認知症になった場合に、自分の資産に対する意思表明をすることは難しい。そのような状況になる前から、受けたいケアや治療の種類・程度が選べる保険制度や、血縁以外で代弁者となり得る機能(人とは限らない)の整備が求められる。

(4)医療現場での治療を超えたコンサルティング機能
高齢者にとってケアや治療の選択、また、医療サービスは「治療」の概念にとどまらず、「病気と共に生きる」ためのコンサルテーション機能が大きな意味を持ってくる。コンサルテーションを担当する「かかりつけ医」が普及することで、本人が望む治療や最期のあり方が把握でき、現在非常に高額とされる終末医療は改善される可能性がある。

(5) コミュニティインフラとしてのIoTやAIの活用
一人暮らし世帯の増加と、人による見守りの限界により、今後は街そのもので見守りを行うことが求められるだろう。そこでは街の「今日」を捉え、状況判断に活用できるIoTやAIの活用領域は大きいと考えられる。

いまここからはじまる社会変革

 間もなく訪れる多死時代に、前向きに創造的に対応する「明るい孤独死」の実現は、個人が自分らしい最期について認識し、それを共有することで社会的に蓄積され、さまざまな局面で議論されることから始まる。社会としての備えは、ケアや終末期に関する啓発や教育制度づくり、ケアやサービスの整備、医療制度の機能拡充、IT活用から街全体の再編成まで、テーマは幅広く、かつ検討余地も大きい。

 しかしながら、超高齢社会の先進国として、個人が最後まで納得して暮らすことができる社会の具体的なイメージが描かれているとはいえない。そうした社会の構築は、まさに今ここから始める必要がある。2025年には65歳以上の高齢者は、全人口の30%を占める。社会の仕組みを変え・定着させるには時間がかかる。残された時間はわずかであると心得るべきだ。