孤独死を選ぶかどうかは個人の自由(後)

2014年08月19日NET IB NEWS 大さんのシニア・リポート第24回

 近所づきあいは「自由」。生きるも死ぬもたしかに「自由」である。何事も自分中心に考える。そうした人たちの共通点は、「隣人の異常は、やがて自分の異常」という発想が驚くほど希薄だ。「孤独死を選ぶのも本人の自由」というのが私の基本的な考えである。「公私には無関係に見守られたくない」という考え方を尊重する。

 そういう人たちにいつもこう伝える。「孤独死を選択するのは自由なのだが、自分の遺体のことを考えたことがあるか。発見が遅れれば腐乱する場合も少なくない。その遺体を処理する特殊清掃業者のなかには、腐乱死体の処理後、何日も死臭が身体から抜けないと嘆くそうだ」と解く。身勝手な死にも、他人の手を煩わせることを忘れないでほしい。

 焼却後も行政の手を煩わせる。死さえ自分勝手にはできない時代になっていることを自覚すべきだろう。それでも他人の手助けを拒否し、孤立を望む高齢者が存在する。無理矢理見守るのは、当人の意志に反することになる。

 逆に「孤独死は嫌だ。他人に迷惑をかけたくない」と思う人には、具体的に手をさしのべるべきだ。発見が早ければ、孤独死を回避できることもあり得る。ただ問題なのが、前出の卒寿の自治会長自身、次の一手が打てないということだろう。「どうしていいのかわからない」と述懐する。

 街全体が高齢化し、疲弊していけば、具体的な手を打つことは難しい。基本的には行政の指導に従うことになるのだが、決定的な回避手段が見えない。宅配やメーター検診の業者が郵便受けの異常さを察知して、関係部署に連絡するという方法も確立されてはいるが、何といっても孤独死を未然に防ぐ最大の方法は、異常を感じた本人が関係部署に連絡するということである。時間との勝負なのである。

 民生委員のように「一定期間をおいての見守り」を実施するのが一般的だ。しかしこれでは緊急事態を回避することは希だ。

 一般的な緊急回避手段は、救急車の要請だろう。電話に出られないときに、所定の位置に取り付けられた(胸に下げたペンダント様式もある)ボタンを押すと、直接消防署に通報され、救急車が到着するという「緊急通報装置」を取り入れた自治体もある。

 しかしこれをすべての独居高齢者に配るには、資金的に無理がある。"安く"“確実"に緊急回避が可能な手段は、人工的に“絆"“結"(近所づきあい)を作り出すことしかない。「隣は何をする人ぞという時代に、あえて近所づきあいなどできるはずがない」とクレームをつける人もいるだろう。この場合の“隣り"とは両隣ではない。近所の、それも気の合う仲間を指す。その仲間同士で"お互いを見守る"のである。

 これが09年、私が住んでいる公的な集合住宅に設けた高齢者の居場所「幸福亭」で実施した「ハッピー安心ネット」である。来亭者を中心とし、互いに「見守りたい」「見守られたい」人たちで組織した。当然、希望者だけ。強制はしない。体調に異変を感じた仲間が電話で連絡するという単純な方法なのだが、戸外から室内の異変を察知できにくい高層住宅では威力を発揮した。

 実は起案した私が、実際に仲間を救出したという経験を持つ。本人から感謝され、実効性を期待されたのだが、この町の行政をはじめ関係部署の反応は鈍く、いまだに検討すらなされていない。

 逆に、市外での反応は良く、とくに「さわやか福祉財団」(堀田力会長)では絶賛された。もっとも「緊急情報システム」(病歴などを書いた個人情報を筒に入れ、冷蔵庫などに入れておき、救急隊員が開示してピンポイントに対応する)とは異なり、広く認知され実行に移されたという話は聞かない。

 どのような死に方を選択するのか、それは間違いなくあなたの自由意志に任されているのだが――。